アニメ 『響け! ユーフォニアム』感想 小説の1巻を読んで

アニメ 『響け! ユーフォニアム』感想 小説の1巻を読んで

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●以前のアニメでの感想

論点だけを備忘録的に
色々とありすぎてまとめる気力がない。
 
①特徴的な点は、冷めている久美子がユーフォを始めて数年経ってから初めて熱を持ったこと。他のスポ根みたいに幼少の頃の熱い気持ちがあった、わけではなく、この前提が多くの人にとって現実的なところから始まっている。
 
②個人的に滅茶苦茶面白かったのは、麗奈と明日香先輩の対比。弱肉強食の世界に生きたい麗奈と本当に弱肉強食の世界に生きている明日香先輩の違い。麗奈はニーチェで、明日香先輩はフォン・ノイマンやな。8話終わったあとにこの構造が見えたとき驚いた。
 
③強き者が全てみたいな価値観を押し付けていくと、ああいう強豪校でもない組織は瓦解していくということ。先生は強き者の論理の人だったけど、組織が瓦解せずに保てたのは、部長たちなどの助け合いの弱き者の論理のおかげであるという、ある意味皮肉でもあり、だが、人の組織として重要な点を見れた気がする。
 
④先生は上手かった。言質を取って発破をかけ、重要なところは雰囲気作りも上手い。途中、久美子のモノローグで「やってみると案外出来るもんだ」みたいな言葉が出たが、そういう経験をさせるには、先生みたいに生徒に「やらせてみる」必要があるわけで。全てを肯定するわけじゃないが、良い先生だ
 
⑤後読感が悪いのは、久美子が暴走したまま終わっているからだと思う。『耳をすませば』で言えば、小説書きなぐっているところで終わってしまった、みたいな。個人的には良くない状態なんだよね。1クールはこの内容の濃さで短すぎた。
 
元の小説が素晴らしかったのか、京アニの脚本化が素晴らしかったのか。
原作を読むしか無い。

 

●小説1巻を読んで

小説は場の「空気」が中心で、アニメは麗奈の「矜持」や「熱意」が中心やね。
 
大筋は同じだけど、微妙にアニメと久美子の立ち位置が違う。
アニメは冷めている感じだったけど、小説は監獄にとらわれている普通の子って感じ。
まず序盤の、久美子の「本気で全国行けると思っていたの?」がどういう心境で発せられたかが違う。
小説はどっちかというと自分の正当性を保つために(ある意味監獄でのルールに従ってて正しいんだけど)何も考えず心無く発せられたが、
アニメは悟りの境地っぽい心境で言っている。諦念。冷めている。
また小説の久美子は初対面の葉月に「あんた友達いないの?」みたいなことを言うような(言えるような)子ではない。
アニメの「冷めていて、悟った風にずばずばと言ってしまうことがある」久美子像は麗奈による思い込みっぽくて、
小説は等身大の久美子って感じだけど、アニメは麗奈から見た久美子って感じかね。
小説からアニメ化する際に、冷めた久美子として物語が再構成されている。
 
アニメのオリジナル要素として、
・過去の"麗奈"への己の言動に捕らわれつづける久美子(目標を決めるときに手をあげれない)
・オーディション時に"麗奈"を思い出して覚悟を決める久美子(嫁カットイン)
・一部のパートをあなたは吹くなと言われて、中学の"麗奈"と同じ心境に至って悔しがる久美子(走らずにはいられない)
などがあり、小説と比べて麗奈が中心にいるように見える。
 
小説では久美子は滝先生による空気には当てられたが、麗奈の熱には当てられていない。眩しい止まり。
一方で、アニメでは麗奈は久美子の心の下支えになっている。
小説では久美子を後押しするものは、演奏中に感じる心地良さが中心であったが、
アニメでは(特に終盤では)、麗奈という生き方に共感し、追随せざるを得ないという衝動が中心になっている。(私的だが、やはり後者は危うい)
 
またアニメでは久美子もまた麗奈のメンター役にすっぽりと収まってたけど、小説にはそれがなくて、麗奈が一人で戦っている感がある。
小説では麗奈の心の奥深くは久美子の地の文で若干触れられるだけだが、
アニメでは「嫌われたらどうしよう」まで麗奈の口から言わせ、麗奈という生き方がどのようなものかを示すことに成功している。
麗奈は公平とかの価値観の価値もちゃんと認めていて、それでも「特別になりたい」という思いから心を殺している子で、
だからこそ、弱き者の論理に当てられたときに彼女は(ちゃんと認めているから)「うざい」と吠える。
明日香先輩のように「どうでもいい」にまでならない。それがわかりやすくアニメで示されている。
そして、そこに後押ししてくれる(後押しすることができる)メンターがさえいれば、麗奈は小説のように顔を強張らすことなく、
真っすぐに生きていけることまでアニメでは示している。
アニメ化による物語の再構成は麗奈のために行われたと言って過言はないんじゃない?
 
アニメ化なり、別メディアに再構成する際、全く同じテーマにしなければいけないわけではない。
ユーフォのアニメ化は、小説を元にした、麗奈を中心としたユーフォに化けている。
小説の中にあるいくつかの教訓のうち、京アニは麗奈を選んだ。
京アニは、麗奈が、麗奈の生き方が大好きなんだろうな。メンターという色までつけてあげて。
個人的にはユーフォで一番人生の折り合いの付け方がいろいろと上手いのは緑ちゃんな気がするけどね。
 

ただアニメ化で若干失敗しているのは、久美子の独白だと思う。
「等身大で、麗奈が心の支えになっていない」小説の久美子の独白をそのまま持って来ている。
アニメの久美子の独白には違和感があって、なぜか感情移入できなかったのはそれが理由な気がする。
確かに久美子の心境は小説とアニメで共通する部分はあるけど、彼女を後押しするものが全然違うから。
ソロの再オーディションのとき、小説では久美子はちゃんと音を聞いて麗奈を選んでいる。
一方でアニメは、音よりも麗奈の生き方に久美子は拍手している。
この違いが独白に反映されていないからだろう。
 

あと小説を読んで気付いたことは明日香先輩は、いろいろと超越した人だけど、
彼女もまた「超越している自分」という一貫性に捕らわれて、香織を素直に推せないってのは発見だったなー。
私はアニメでそこまで見抜けなかった。
言われてみれば当たり前なのど、明日香先輩も人なんだなぁ。
 
完全に蛇足だけど、ユーフォを読んだ後は、プラトンによる民主主義の批判を思い出す。私にも適切な指導者や場が過去にあったならば、と思ってしまう。
 

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『ご注文はうさぎですか?』 一期感想 + 二期一話感想

 
 
 

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TVアニメ『ごちうさ』2期 第1羽より先行場面カット到着 | アニメイトTV より引用

 

 

家族と呼べる相手

 原作未読
 ごちうさ2期が、かの「ゆゆ式」を作ったキネマシトラスと共作だと知ったので、一期を予習してきた。
現行のときは、ココアがなんか人間じゃなくてキャラクターっぽいなーと幻滅して1話冒頭しか見てなかったけど、最後まで見るとそれなりに骨のある作品でした。


 私たちは生まれたときに家族を選べない。神の定めのごとく誰々は家族であり、誰々は他人であると決めつけられている。そして、家族は互いに助け合うべき共同体である、みたいな風潮が現実に存在していて、家族であるならば基本的に家族のために相互補助という名の無償の奉仕が構成員に課せられる。他人と比較して、家族という集団にはそのような内側の論理が存在している。生まれたときの家族は選べないのだから、(内側に対して)碌でもない行動をする奴が家族だった場合、「家族」という慣習を呪う人もいるし、家族の組織として重要な位置を占めている人が内側の論理に無頓着で役割を果たさずに家族が瓦解していく話もよく目につく。内側の論理自体は今回の本筋ではないので割愛する。

 生まれたときの家族は選べないが、結婚等で家族を選べることもある(だからこそ結婚に選んだ相手には、自ら明示的に内側に入れたのだから責任を果たせという意見には個人的に賛成)。だが内側か外側かの判断は書類や血統などの物理的な境界だけではない。他人の中にも知り合い、友達、親友、家族同然に漠然と分けられるように、個人が相手を内側外側の直線上のどこに位置付けるかという論理的な境界がある。つまりどの程度心を許すか、どの程度までの内容なら無償の奉仕をしてもいいかと家族だろうと他人だろうと相手一人一人に対して判断している。社会的に物理的に家族という関係だろうが、論理的に家族としてみなしていない、故に内側の論理を果たすつもりのない関係ならば、世間一般的に思い浮かばれるような理想的な家族関係にはなり得ない。
 大筋として『ごちうさ』は、本来の家族以外を内側に通そうとしないチノが、物理的な家族になってしまったココアを、論理的に外側から内側に受け入れていく話で、その中でチノがココアに感化されて頑な態度を変容していく成長物語ですね。子連れ婚時に子供が新たな親を親と呼んでくれるか、みたいな話に通じる部分があります。

 チノは内側に通すのが下手な子です。ただ彼女は警戒心から相手を跳ね除けているというよりは、近づいてくる相手への対応の仕方を知らない人見知りなだけで、根は素直な子です。接客業にも関わらず、お盆で口を隠す動作が印象的でした。
 一方でココアはがしがしと相手の懐に飛び込んでいく子で、「私はあなたを内側と見なすからあなたも私を内側とみなしなさい」と豪腕を振りかざします。彼女は誰に対しても底抜けに明るく、同年代近い相手には相手によって態度を変えるような真似もしない表裏のない子です。逆に言えば、相手によって態度を変えないので、少なくともチノに対しては、チノは対外的に心を開いていないのに素足で乗り込んでくる、一見デリカシーのない態度に見えるんですね。個人的にはもう少しチノに合わせてやれよと初見時には思ったのですが、祖父が言っていたように、人見知りなだけのチノには結構適切な対応だったのかもしれません。実際、チノはココアのお近づきには肯定的な反応を示します。しかしながら、厳として「おねえちゃん」と呼ぶことには否定的です。姉という敬称は家族とみなしている左証ですから、ココアが同じ屋根の下で寝るという物理的な家族になったとしても、チノは内側の論理が適応される仲である論理的な家族としてココアを簡単には迎えません。一期は、チノがココアを「なんだこの客は……」から家族として迎い入れていくまで話で、その中で横のつながりを作っていくココアの豪腕を肯定的に描いていた作品でした。

 ココアは相対する相手から誰からも最初は「なんだこいつ……」やら「変なやつだ」やらと思われがちですが、こちらが心配になるほど真っ直ぐな性格だと分かってくるので、最終的に誰からも受け入れられていく子です。(現実にこのような性格の子は存在してそうかと考えると、やっぱり人間臭くなくキャラクターっぽいなと思える一方で、若さを考えると純粋な性格のままの子が存在している可能性は否定出来ないなとも思えます。ここらへん物語として思春期の子らをメインにする利点な氣がします)。
 個人的にまず『ごちうさ』良いなと思えたのはシャロの存在でした。ココアと対称的な性格の持ち主は、チノというよりシャロな気がします。ココアはすぐに内側に入り込んでいくのに対し、シャロはどこまで外側で対峙しようとしている。シャロのお家事情は見えませんでしたが、正直、本当に生活のことだけを考えた場合、さっさとチノ家なり千夜家なりに転がり込んで、生活費を折半した方が色々と安く済みますし、それが内側の利点なんです。でもシャロにはそれが出来ない。当初は受け入れてもらえるかわからないという不安が大きな原因のようでしたが、物語中盤で家バレして千夜に諭され受け入れてもらえることを肌で感じても、彼女はやっぱり一人で特売に足を運ぶんですね。内側に入るということは、自由が制限されますし、彼女自身の自立しているという矜持や今までの自分との一貫性を天秤にかける必要があります。シャロの生き方は全く不器用で寂しい思いをする生き方で、現代の隣に住んでいる人のことも知らない生活を上手いこと描いている気がします。象徴的なのが、主要人物たちとある程度親しくなった後で風邪を引いても千夜しか見舞いに来ないことでしょう。見舞いに来ないというよりかは、シャロが周知しなかったという方が正しく、彼女自身これは自分の問題で他人には関係ないと思い、やはりチノたちは他人なんですね。千夜はシャロの機微について敏感で、今のシャロを認めつつ、もうちょっと内側に入ることを促す大人な女性でした。(蛇足ですが、ココアはチノとは噛み合いましたが、シャロにチノと同様のアプローチを熱烈に仕掛け続けた場合は「余計なお世話よ!」と言われて、確実に関係が破綻するでしょうね)

 話が飛んだので無理矢理、チノとココアの話に戻します。
 「自らがある人物を家族のように扱うか他人として扱うか」と「相手から家族同然として扱われているか他人として扱われているか」という2つの境界を見誤ると痛い目にあうのが世の常です。例えば自分が相手を家族だとは思っていないのに下手に相手の懐に入りすぎてしまうと、相手が自分に家族としての無償の奉仕を求めてきて、断ることになる。結果相手に「面倒を見てやったのに……」と裏切り者のごとく扱われる。なかなか人間関係の中でも重要な境界線です。
 ココアの戦略は私はあなたを内側とみなしますよーという態度を明示的に示すと同時に、相手がココアを内側と見なす前提で話を進める。「妹ができました」とチノの内心を無視して発する。チノははっきりと否定しますが、もし否定しなかった場合、いつの間にか内側と見なすのが当たり前みたいな雰囲気になってしまうんですよね。ココア、なかなか恐ろしい子です。
 チノはチノで、はっきりと否定し続けるのは彼女らしいです。彼女はココアを内側外側のどこに置いているかという自身の判断を大事にしていて、その位置をココアの戦略によって流れでズラされるのを嫌う、芯のある子です。だからこそ、『ごちうさ』は流されいつの間にかココアが家族同然となっていて「どうしてこうなった?」とチノが戸惑う作品ではなく、チノがココアをチノ自身の判断で内側においたことが分かる作品になり得たのだと思います。
 ココアは父の日やパズルやら事ある毎にチノの信頼を勝ち得てきたわけです。まぁココア自身はイベントをただただ全力で楽しんできただけで、始めから信頼を得ようなんてことは微塵も考えていないようでしたが。8、9話あたりから追うものと追われるものが逆転するのは感慨深いものがあります。

 繰り返しになりますが、物理的に家族であろうと、論理的に家族同然でなければ、理想的な家族らしい家族はなり得ないわけで。日常系というジャンルは暗い日常じゃなくて理想的な日常を描いていますが、『ごちうさ』一期は理想になる過程も限定的に描けているのが他にない目を張る点のように感じました(見ていない日常系作品も結構あるので断定できませんが)。個人的にココアの戦略を全面的に肯定はできませんが、チノのようなガードの堅い相手にはココアのごとく熱烈な積極性が1つの解なのでしょう。この熱さは『灰羽連盟』の「レキ」と「ラッカ」を思い出しますね。個人的に二期はシャロの変化を見せてくれると嬉しいなと思います。
 ご精読ありがとうございました。


追記
二期一話感想
 冒頭、一期一話冒頭と逆でチノがココアの元に訪れる形に。追うもの追われるものが完全に逆転してますね。チノにとってココアは憧憬の対象までになっていて、二期もチノとココアの関係が中心なのかなと思えます。一期OPでチノの横に立っていたココアがチノと対面を向いている(視聴者的には手しか見えない)のも、一期と二期の関係性の違いを感じます。
 OPやEDの歌詞から普通の日常系以上のものは読み取れないし、方向性がわからないな。Cパートにあったチノ母や、OPにいたココア姉(?)との対比実験でチノとココアの関係性を露わにしていく感じなのかな。

蛇足:OP直後のトランペットが印象的なBGMが全然似てないはずなのにアベノ橋を思い出した。人間、達者が何よりやー。

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TVアニメ『ごちうさ』2期 第1羽より先行場面カット到着 | アニメイトTV より引用

 

 

 

『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』(アニメ)感想考察

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

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http://www.shimoseka.com/story/11.html より引用

 

 

下セカ、感想考察。評判を聞いて視聴。
原作未読。ネタバレあり。

 タイトルから察する通り、全く下品でエロティックな部分もある健全な作品だが、BPOが仕事をしようにも、作品内容がそのままBPOによる苦情への返答になっている。その程度にエスプリの効いた作品です。下品だけど。

 私は功利的な考えやマキャベリ的な考えに一定の理解はしているし、だから思想統制にも一理はあるとは思っている。だが、国の論理で推し進めた結果、個人に歪な影が見えてくるのを描いている作品だと思います。
 エロいことが規制された世の中では、アンナは何が卑猥なことかを彼女自身が理解せず倒錯した人物に成り果てているし、理解しないと取り締まれないというジレンマに対しては、理解せずにあくまで機械的に対処する朧という歪な人物が出てきます。もしこの作品を下品でエロいから放送を止めろと言ってしまうと、それは「公序良俗健全育成法」によって下ネタが規制されたのと同じで、アンナ達のような歪な存在を肯定することになってしまうのです。規制が正しいことをしていると思い込んでいるならば、なんて質の悪いことか。そんなパンチの効いた作品です。下品だけど。

次に、数話で批判精神はよく分かったけど、残り何するんだろうと思っていましたが、想像以上に「下ネタ」について真摯に(紳士に?)メッセージ性を感じました。

11話で綾女はタイトル回収の演説をしましたが、あれは対外的な部分も大きく、実際彼女の行動原理はもっと個人的なところにあると思います。

「たちつてとなかにはいれ」。これは相手との話題に詰まった時に共通話題になりやすい話題の頭文字をとったものですが、下手すると共通の話題というのはなかなか見つからないものです。しかし、人類なら確実に共通の話題になる話題があります。その1つがエロであり、下ネタなんですね。
 このアニメで怒涛の如く現れる卑猥なメタファーや、自主規制された隠語を想像で埋めるには、エロ知識なくして出来ません。知識がなければリオン先輩のように首をかしげるだけで「ひっでぇ」という感想を持つこともありません。
 綾女が下ネタを言ったりジェスチャーしたりすると、狸吉が突っ込み、鼓修理は被せ、びんかんちゃんははわわします。それはただ音が伝わっているからでなく意味が伝わっているからです。
 綾女にとって「下ネタ」とは本来は誰とでも意味の通じ合えるコミュニケートの話題であり手段なのです。そして、ただのコミュニケートの手段だからこそ、綾女は狸吉の一物を見てグロいと引いたり、バイブの誤動作に引いたり、さらさら実際の行為には興味はなく、一方で一見しっかりと知識がありそうだった朧が現れたときは興奮したのです。
 物心ついたころから「下ネタ」で相手の反応を見てきた綾女にとって(その是非はおいといて)、「下ネタ」を言っても意味を取れず首をかしげられる世界というのは、コミュニケートの取れない、退屈で仕方ない世界でしょう。これがもう1つのタイトル回収だと思います。
 SOXの行動が性知識の流布に留まるのも、彼女がただコミュニケートできる人を増やしたいと考えているからであって、これはつまり、オタクが相手との共通の話題のために自分の好きなジャンルを布教している構図にちゃんちゃら変わりなく、SOXは思想統制する圧政に闘うのと同時に綾女の個人的な布教活動も行っているわけです。だからこそ綾女は意思が固く、強いんでしょうね。

このアニメを見て、下ネタは人類共通の話題なのに、みんな表には出さない裏の魅力があると教えられたけど、やっぱり使いどころは難しいと思う。でも以前よりは人類共通のコミュニケートの手段としての側面を知って、少しは好きになった(なってしまった?)かなと思います。
佳作やね、と思ったら、某ラノベ大賞だったのか。BPOに真っ向から立ち向かいつつ下ネタを勧める構成は大賞と言われても納得はできる作品。作者の下ネタ好きさが十二分に伝わる、下ネタ布教作品でした。
ご精読ありがとうございました。

 

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http://www.shimoseka.com/story/5.html より引用

 
 

『干物妹!うまるちゃん』 感想:「甘え」について

 
 
 

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アニメイトTV 「7月8日放送『干物妹!うまるちゃん』第1話より、先行場面カット&あらすじを大公開!」より引用

 


 うまるについて感想。ネタバレあり。キーワードは「甘え」かな。このアニメについて個人的に面白いと思えたのは、兄の前で「良い子ちゃん」であったうまるが、駄々っ子である「こまる」に変化したという作品背景です。それは元々物心付いたときから公理として「自分が相手に合わせてもらって当然」と思っている純粋な餓鬼ではなく、一度「もしかしたら兄にとって理想の妹でなければ、兄が相手をしてくれなくなるのでは?」と考え、兄の前で「良い子ちゃん」になっていたうまるが、例え何をしても兄は私を愛してくれるという確信を持つに至ったというわけで。甘えられない現代人なんて話を耳にしますが、どうして兄に対して「良い子ちゃん」を克服して甘えられるようになったのか。またなぜその甘えの形が幼児化なのか。とか考えだすと、結構今のために今を切り取った良い作品なんじゃないのかなーと思います。

 簡単に作品内容をまとめると、家の外では容姿端麗で温厚篤実、文武両道である埋が、家の中では自堕落な生活を送りつつ(兄に対して)傍若無人に振る舞うただのギャグアニメです。なので以下はただの妄想です。

 外面だけは良い子ってのは実際は内心腹黒だと描写されることが多い一方で、埋はあくまで(兄の前や兄に関することでない限り)腹黒ではなく、誰に対しても根から素直な良い子として描かれていたのが印象的でした。埋は相手との距離を測り損ねることなく、周りから一目置かれるようにしっかりと立ち回っており、「学校ではこういう設定」と漏らすように他人との関係を調整しています。一対多の関係はさすがにフィクション臭さを消しきれませんが、話を追ってみると、こと一対一で相手と対面する時、埋は偏見なく相手個人を捉え「相手が何をしたいのか」を観察し、それに合わせて行動する聡明さと優しさを備えた子であることが伺えます。うまるのときでも、こまるのときでもです。打算なく素として相手に合わせて喜ばそうとする埋はカントも認める倫理を備えた聖人君子の類でしょう。こう見るとやはり例外としての兄への態度が意味わからんのです。きっと兄もなぜだと思っているはずです。身内だから隠された埋の本性が露呈したと単純に考えるには、外面に打算がなさすぎて、外面も本性のように見えます。状況に合わせて人格を切り分けているというより、両方とも自然体な埋で、つまるところ、環境が変化した時に埋が意識的に態度を変えているのではなく、環境が変化した時自然と埋の態度が変わっている。ここに、ただ対峙している人によって態度を変えるという意味での「分人」では捉えきれない違いがあり、その違いが埋については「甘え」で説明できる気がします。(補足:意識的に態度を変えているといっても、その変更を自覚している人は少ないでしょう。なので、ここでの「意識的に態度を変える」とは、社会的に親子関係はこうあるべき、兄妹関係はこうあるべき、みたいな要請に従って態度を変えていること、が一番私の言いたいことに近い気がします)

 うまるは誰に対しても合わせて行動をしますが、逆に言えば他の人に合わせてもらうことはないわけです。つまるところ、うまるは他人に対して甘えることをしません。また彼女は素として相手に合わせてしまうので、意図的に相手に合わせてもらおう、甘えようと考えるのは、彼女自身彼女らしくない行為に思えて、簡単には実行できない類の考えです。彼女が彼女らしい範囲内で甘えられる相手は、自分より立場が上で、かつ、埋と同じように相手に合わせようとする人だけでしょう。この場合、埋が相手に合わせようとすると、相手が埋に合わせようとしているので、埋が相手に合わせてもらう結果に自然と落ち着くわけです。言うまでもなく作中では兄がその役に当たります。

 しかしながら、合わせてもらえる状況になったとしても、実際には簡単に甘えられるわけではありません。というのも、「良い子にしてたか~」と言われながら育てられてきた埋としては、「甘え」てしまうとその態度は兄の思う「良い子」から離れた行為であるかもしれず、下手に甘えた結果、関係が終了してしまう恐れがあります。甘えられる状況ですが、心境として甘えるに甘えられない生殺し状態なのです。俗に言う「良い子ちゃんを演じさせられてきた」という正体がこのような生殺し状態なのかな、と思います。そして実際、以前は、埋は兄に対して「良い子ちゃん」だったようです。埋からすると良い子ちゃんをしている間は、最悪ではないが、そこまで居心地の良い兄との関係ではなかったはずです。本音だって簡単には言えない状況でしょう。そして、現状こまるはそのような恐れを一切持っておらず、どこまでも自分に合わせてもらっています。この作品の売りの1つは、そんな、兄を愛を全面的に信頼して行動している、甘ったるい、しかしながら現実にもありそうな兄弟関係の理想を示しているところだと思います。

 ではどうやって埋は、自分がどんな行為をしても兄は見捨てないと確信に至ったのか。残念ながら作中では以前と現状の違いは語られますが、変容の過程は語られていません(アニメ10話まで、かつ原作未読)。ですが、推し量れるだけの背景は見えています。

 目につくのは、兄の生活の空虚さです。無欲で、趣味もなければ、どのように生きたいかなんてビジョンも持ち合わせていない。一人暮らしで社畜、ただただ毎日を消費するような感じです。そんな兄に対して埋はちょっとしたサプライズを、刺激を提供したのではないかと思います。何もない生活より、多少面倒事でも何かある方が人生は充実しているもので、聡明で思いやりのある埋なら、察して行動に移していてもおかしくありません。そしてその中に甘えてみるという項目もあったのだと思います。OP曲の歌詞で「わがまま放題は大好きの裏返し」というフレーズがありますが、これは森見登美彦著作『四畳半神話大系』の小津の「僕なりの愛ですよ」と同義です。ここらへんは『四畳半神話大系』のテーマの1つなのでそちらをご覧になった方が理解しやすいと思います。まぁこまるの現状はもう信頼性の裏返しという言葉が適切な気もしますが、兄の充実のために甘えてみると兄は甘える埋を許容してくれて、埋は回数を重ねる毎に恐れがなくなっていき、兄の望む通りに自らに合わせてもらうようになったのだと思います。埋の自然な範囲内でどこまでも甘えさせてくれると判明した兄は埋にとって特別な存在に違いありません。

 ここで、ただの一例ですが、ヒモ男の話を1つ。ヒモ男が相手の女性が自分に甘えさせてくれるかどうか確かめる方法に、机の下で足を当ててみるという方法があるらしいです。その結果(相手が一切悪くないのに)「ごめんなさい」と謝ってくる女性は甘えられる相手であると判断できると聞いたことがあります。甘えられない人が覚えておいた方がいいのは、甘えるにはどこまでが許容範囲かを打診する試しが必要だということです。また打診は最悪の場合に関係を修復することを念頭に置くならば、小さいことから始め、言い訳の大義名分も必要です。ヒモ男なら偶然足があたったと言えるし、うまるの場合はただ兄の充実を思っての行動だったのだと思います。そして、相手の反応を見て出すぎた真似をしたとときにちゃんと謝って、範囲を見極めていけば、大抵の人は目くじらを立てることはしないと思います。甘えるにも、トライ・アンド・エラーとリスクマネジメントというところでしょうか。不器用ですからとか宣って相手に期待するのは稚拙でしょう。

 愛の形は人それぞれよね、とは言いますが、なぜに埋の場合は幼児化なんでしょうかね。思い出すのは、岡田斗司夫著作『オタクの息子に悩んでます』に掲載されていた「(独り立ちしている)大人の娘が実家に戻ってくると子供のように甘える」という話です。独り立ちした娘は実家の中では大人の女性として役割がなく居心地が悪いために、実家でのかつての役割である子供になることで彼女は居心地の悪さに対処しているという内容です。そういう役割という側面から見ると、埋の幼児化が分かる気がします。

 兄は共同体の組合員として埋に役割を与えず、ただただ面倒を見ていた結果、彼らの関係はそのまま固まり、養育する役割の兄と養育される役割の妹という関係だけが出来上がってしまっています。埋が甘えるとすると、その関係の上で甘えるのが自然で、他に甘える形がないのです。もし仮に彼らがカップルだったとすると、彼氏彼女の関係の中で甘え、親と子のような現状にはならなかったのではないかと思います(とはいえ、カップル像は人それぞれで、養う側と養われる側という関係を理想とする人もいるでしょうが)。とどのつまり、埋は養われる側の役割を全うし、その中で甘える方法として、面倒を見られる堕落した子供になっているのだと思います。漫喫の話は、堕落は兄を充実させたり、兄に甘えたりするただの’方法’であるため、兄の関係のない空間で堕落するのは、やっぱり埋にとってなんか目的の違う違和感ある行為だと感じる、という話なのだと思います。(ただし、ゲーセンだけは例外で、彼女にとって他に意味ある特別な空間に思えます。やっぱり兄関係かな?ゲーセンのぬいぐるみ?)

 作品は、エンタメ性のために、既にかなり埋が幼児化した時点から始まっていますが、それは逆に言えば、既に埋が兄に対してどこまで甘えても、自分に合わせてくれる許してもらえるという信頼感を持っている状態でもあります。そのような信頼感を持っている兄妹関係の理想を示している日常系なのでしょう。

 とはいえ、兄からすれば何が理想だと怒られかねませんね。信頼感を持っているという点では素晴らしいかもしれませんが、その現れ方がこまるですし。兄としては他にやることもなく一応充実はしているが、もうちょっと親しき仲にも礼儀ありをして欲しいんだがなー、という心境で、状況を打開するため、兄はこまるに対して自律しろと怒るわけですが、それは躾ける側と甘えて躾けられる側という関係の肯定でしかなく逆効果です。実際に必要なのは、他の関係でしょう。そのために育てる兄と面倒を見られる妹という上下関係を均せるような、家族としての役目を埋に全うさせることが必要だと思います。一番印象に残った話は、役割より兄への信頼性が勝って埋が自分から料理を手伝いに来た話で、あれが分岐点なんでしょうね(手伝いが続けばですが)。

 最後に関係性に対する個人的な評価としては、信頼性が透ける微笑ましい関係ではありますが、役割配分が不味いために互いに尊重できるような関係ではなく、また埋が兄の愛をもはや盲信してるけど、いつか兄が(微レ存ですが)爆発する可能性もある準安定的な関係やなーと思いました。個人的な嗜好としては、三上小又著作『ゆゆ式』のゆずこらのように良い関係性を維持していこうという気概に逞しさを感じるので、兄の優しさに依存しすぎた現状はあんまり芳しくないように思えます。一方で『ゆゆ式』と比べると、3人と2人や、友人と家族という違いの他に、『ゆゆ式』は完全フラットな上下関係のない関係性なのに対し(そのため、学生後は利害関係や上下関係のない場はそうそうないため、似たような状況になれるのは精神病院とか老人ホームぐらいだろうと思える)、うまるは上下関係のある中での1つの安定点であるという点でより実利的だなとは感じました。それと少なくても今回、「甘え」に関していろいろと学ばさせてもらえた気がします。(次は隙かな。にしてもまた最後に必ずゆゆ式と比べてしまうのはもはやなんとも……)
 正直ギャグアニメとして純粋に笑えるという点ではそれなりでしたが(ラブラボや野崎くんが強すぎた。あ、でもラップ幽霊たち?には爆笑しました)、個人的に今季のゆゆ式枠でした。なーんつって。

 ご精読ありがとうございました。

 

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アニメイトTV 「7月8日放送『干物妹!うまるちゃん』第1話より、先行場面カット&あらすじを大公開!」より引用

 

 

刀語 12話(最終話) 感想

 
 
 
 

三つ子の魂百まで、されど己を知らず

原作はかなり昔に2巻まで。

後にも先にもこれほど衝撃を受けた最終話は今までなかった。
意味あるバットエンドだと感銘を受けた。今まで分析を放置してたけど、なぜ私が衝撃を受けたのか考えてみようと思う。最終話以外は一回しか目を通してないのでその程度の考察です。


一般的な現代人は、学生なら朝起きたら学校に行き、社会人なら会社に行く。それは当たり前であり、普通なのだ。そしてとがめにとっての普通は、生きる方向性は、幼心に植え付けられた復讐を成し遂げることである。これらは幼少の頃に植え付けられた一種の固定概念であり、どう生きたいかを考え自らの意思で決めた目的ではない。ただ鼻先にやるべきことをぶら下げられただけだ。
 しかし、復讐の道中、とがめは七花と一年間過ごす。その中で

”「三十年間、孤独にこの道を歩んできたわたしだが……出会ってたかが一年のそなたに、わたしのほうこそ教えられた……人はどう生きるべきなのかを」 「いや、おれはまだ、そこまであんたの人生観を変えるようなことしてねえよ!」”
”「そなたはわたしに、数え切れないほどの何かをーーしてくれた」”
”「そなたのお陰で楽しかった。そなたのお陰で嬉しかった。そなたのお陰で笑って、喜んで、はしゃいでーーまるで、自分が自分でないようだった。そなたのお陰でーーわたしは、変われるのではないかとさえ思えた」”

 しかしながら、その変わる先が厄介だった。七花は復讐対象の一人に当たっていた。”「憎くないわけがなかろう」”今回の場合変わるということは、今までの自分を否定することと同義になる。復讐心からすれば、情が移ってしまったのは許容できない。ソシャゲの射幸心を煽る方法の1つとして「今までやってきたことが無駄になりますよ」という方針があったが、復讐心もそのようにとがめを煽るのである。そして結果として

”「結局、わたしは変われなかったのだ」”
”「全部、嘘だった」「刀集めの旅が終わればーーわたしはそなたを、殺すつもりであったよ」”

 と、策士とがめは、自らの力だけでは、根底に復讐心を置くスタイルを変えることは出来なかった。さらには一切妥協を許さず、目的の邪魔となるものは、排除されていく。

”「言ったろう。駒だ。喜びも哀しみも楽しみもーーすべてわたしの駒だ。制御する必要のない、取るに足りない代物だ」”

 復讐心以外の感情さえ目的のための道具と扱う。優先順位が動くことはない。以前に感情豊かに振る舞い、「刀集めが終わったらそなたと日本巡りしたい」等いちゃいちゃしていただけに、この本音や先の「殺すつもりだった」発言は、底で響く悲しい音色を感じさせて衝撃的だ。
 しかし、この揺ぎない優先順位を動かす出来事が起る。それはとがめが殺されることだ。死に瀕して復讐心が優先順位を他に譲る。死にかけだし、こりゃもう復讐はできなさそうだと譲歩する。

”「そなたの言う通りーーわたし達の負けだ。まあ……わたしが死ぬだけで、そなたが死ななかったのだから、よしとするか」”
”「わたしはーー今、とても幸せだよ」「道半ばで撃たれて死んでーー幸せだ」「これで、そなたを殺さずに済んだのだから」「やっと……やっと、これで……、やっとこれで……全部、やめることができる」”

 死は、復讐心以外の感情にとっては解放を意味していた。七花を殺す未来を閉ざす救いであった。とはいえただ抑圧が緩くなっただけで、とがめが変われたわけではない。とがめは、策士とがめと決別したわけではない。

”「わたしは自分勝手で自己中心的で、復讐のこと以外は何も考えることができず、死ななければ治らないような馬鹿で、そなたを散々道具扱いした、酷い、何の救いもないような、死んで当然の女だけれどーーそれでも」 「わたしはそなたに、惚れてもいいか?」”

「惚れる」という動詞は本来惚れる相手の許可が必要だろうか。枕詞(~の女だけど)から相手への配慮故の婉曲表現、一話の「私に惚れても良いぞ」の対比と解釈するのは普通だけど、自分の心へ、復讐心様への許可願いにも解釈できる。そしてその表現はあたかも自分の心が第三者の所有物みたいな意味合いを感じさせる。策士とがめ様の所有物。
 そして、とがめは策士とがめと共に逝く。七花を殺さなくて済んで良かった。七花が憎い。両方とも本心である。憎い方が”ただ”アイデンティティを、歴史を保つために優先されてただけだ。


 一方で七花。とがめにおいての復讐心に当たる固定概念は、七花にとってはとがめの命令だった。「12本の刀の破壊の禁止」「自分自身を守ること」「なるべく不殺」。命令が解除された彼は、敵の本陣に乗り込み、ばっさばっさ敵をなぎ倒し、とがめを撃った銃に辿り着く。完全変体刀の完成はとがめの死をもって完了したと言うが、実質むしろ固定概念の、命令の解除が完了のための条件として、またテーマの象徴として大きな意味合いを持っていたのだろう。しかし、彼にはまだ解除されていない命令があった。とがめが死ぬ間際、

”「虚刀流七代目当主ーー鑢七花。最後の命令だ」「わたしのことは忘れてーーこれまでの何もかもを忘れて、好きなように生きろ」”

 固定概念はとがめを苦しめた。むしろ人生を支配したと言っても過言ではない。だから固定概念は打破すべきだ、何もかも忘れて生きるべきだ。だがまた「何もかも忘れて生きる」というのもまた固定概念であり、命令ではないか。だから七花はこの命令を打破しようとする。とがめの固定概念を揺るがすことのできた銃と対峙することによって。

”七花「とがめのそういうところが好きだったんだから、俺も自分のために戦ってきたんだろうぜ」
左右「なら! お前は何のために乗り込んできた!?」
七花「……死ぬためだ。
 とがめは俺に生きろと言ったけど、俺はもうそんな命令に従う必要はないからな!
 俺を殺せるのはあんたを他にいないと考えてるぜ。
 とがめを殺したあんたしか」”

 結果として七花は勝利する。銃は「何もかも忘れて生きろ」という命令を破壊できなかった。この勝利は「「固定概念は打破して生きるべき」という固定概念は公理で例外なので打破しなくても良い」という作者の主張の象徴だろう。


ここまでをまとめると「(自身の歴史である)固定概念に囚われすぎるな」「自身の感情を無視するな」というテーマになる。こう簡単に言ってしまうと、うん、まぁよく聞くよくあるテーマだなぁと感じるのは個人的に否めない。ではどこに衝撃を受けたのかなと考えてみると、きっと初めて悲しい音の調べをはっきりと聞けたからだと思う。漱石は「のんきと見える人々も心の底をたたいてみると、どこか悲しい音がする。」と語った。維新は復讐心という固定概念に囚われ、自分の感情を無視したとがめという登場人物を使い、その死の確定と実際の死の間だからこそ心が緩み、表面に現れる悲しい音の調べを聞かせてくれたように思う。とがめはのんきって感じではなかったけどね。そしてその悲しい調べを聞かせる死を、救いという形で書き上げた。本来死と言えば、決別や後悔という負のイメージが強いが、とがめの死は救いを感じさせる。死ぬ間際に訊いた後悔したことのランキングに「仕事ばっかりしなければ良かった」等々あるが、果たしてその場合死は救いになっただろうか。きっと悲しい調べの中でも名曲を聞かせてくれたのだと思う。


最後に原作冒頭、また12話の予告の台詞を。テーマど真ん中である。「仕事ばっかりしなければ良かった」にならないようにということ。

”歴史とは人である。
つまり歴史とはきみである、
きみの知る歴史はすべて嘘だが
きみの知るきみは決して嘘ではない
真実だとか真相だとかまたは絶対とかそんな言葉は空想の産物だ
そもそも誰も信じていない。
きみがただ、きみであってくれますように”

 

人声っぽいボカロの話

 
 
 

 

http://tn-skr2.smilevideo.jp/smile?i=22069149.L

最近、ファミマに行くのがつらいにて人っぽいボカロの話が上がっていたので便乗

私もどっちかというとボカロ特有の声よりは人声の方が好みなので、同じような感覚の人に、私の知っている人っぽいボカロを紹介する。まぁcevio中心になるから厳密にはボカロじゃなかったりするけど、一般人にはどうでもいいよね(

基本的にオリジナルではなくてカバーになるし、私もそこまでボカロ追っかけているわけではなく、たまに私に合う曲があるか調べる程度ですのであしからず。

【カバー】さとうささら「アイヲウタエ」【春奈るな】 ‐ ニコニコ動画:GINZA

西尾さんのアニメOPのカバー 人っぽい声ってのはこう音程調節しているのかという驚きもありました。

 


メグッポイドで Miracle∞Gumiracle 【東方vocalカバー】 ‐ ニコニコ動画:GINZA

東方アレンジ(確かイオシス)のカバー。2009年の作品。

 


さとうささらに「ドレミファロンド」を歌わせt【CeVIO Creative Studio FREE】 ‐ ニコニコ動画:GINZA

私がさとうささらの追っかけを始めたきっかけの作品です

 


【カバー】蒼姫ラピスで「ラブミーギミー」【Tia】 ‐ ニコニコ動画:GINZA

うーさーEDカバー。神無月さんは人声目指すだから紹介多くなる。

 

 

閑話休題。最初にリンク張った記事に書いてあったけど、なんで数年前からヴォーカルの方向性が人声に近い方向になっていかないんだって話。

私の持論なんだけど、ボカロ特有の声を活かして曲をつくろうって大きな流れがあるのではないかと思っている。人声に近いヴォーカルを聞きたいってのは聞き手側のエゴで、曲を作る側のエゴもあるよね。

それに人声に似せてないボカロでも多分琴線に触れる曲はあるはずだから、食わず嫌いせずに探せば良いと思う。

有名所ばかりだけど
【鏡音リン】炉心融解【オリジナル】 ‐ ニコニコ動画:GINZA

【オリジナル曲PV】マトリョシカ【初音ミク・GUMI】 ‐ ニコニコ動画:GINZA

【IA】日本橋高架下R計画【アニメーションMV】 ‐ ニコニコ動画:GINZA

最後のは1つ1つの動画小ネタが面白いってのが大きい気もする

 

おまけ
【東方PV】きっともうはたらかない【IOSYS】(高画質・高音質版)H264 ‐ ニコニコ動画:GINZA