刀語 12話(最終話) 感想

 
 
 
 

三つ子の魂百まで、されど己を知らず

原作はかなり昔に2巻まで。

後にも先にもこれほど衝撃を受けた最終話は今までなかった。
意味あるバットエンドだと感銘を受けた。今まで分析を放置してたけど、なぜ私が衝撃を受けたのか考えてみようと思う。最終話以外は一回しか目を通してないのでその程度の考察です。


一般的な現代人は、学生なら朝起きたら学校に行き、社会人なら会社に行く。それは当たり前であり、普通なのだ。そしてとがめにとっての普通は、生きる方向性は、幼心に植え付けられた復讐を成し遂げることである。これらは幼少の頃に植え付けられた一種の固定概念であり、どう生きたいかを考え自らの意思で決めた目的ではない。ただ鼻先にやるべきことをぶら下げられただけだ。
 しかし、復讐の道中、とがめは七花と一年間過ごす。その中で

”「三十年間、孤独にこの道を歩んできたわたしだが……出会ってたかが一年のそなたに、わたしのほうこそ教えられた……人はどう生きるべきなのかを」 「いや、おれはまだ、そこまであんたの人生観を変えるようなことしてねえよ!」”
”「そなたはわたしに、数え切れないほどの何かをーーしてくれた」”
”「そなたのお陰で楽しかった。そなたのお陰で嬉しかった。そなたのお陰で笑って、喜んで、はしゃいでーーまるで、自分が自分でないようだった。そなたのお陰でーーわたしは、変われるのではないかとさえ思えた」”

 しかしながら、その変わる先が厄介だった。七花は復讐対象の一人に当たっていた。”「憎くないわけがなかろう」”今回の場合変わるということは、今までの自分を否定することと同義になる。復讐心からすれば、情が移ってしまったのは許容できない。ソシャゲの射幸心を煽る方法の1つとして「今までやってきたことが無駄になりますよ」という方針があったが、復讐心もそのようにとがめを煽るのである。そして結果として

”「結局、わたしは変われなかったのだ」”
”「全部、嘘だった」「刀集めの旅が終わればーーわたしはそなたを、殺すつもりであったよ」”

 と、策士とがめは、自らの力だけでは、根底に復讐心を置くスタイルを変えることは出来なかった。さらには一切妥協を許さず、目的の邪魔となるものは、排除されていく。

”「言ったろう。駒だ。喜びも哀しみも楽しみもーーすべてわたしの駒だ。制御する必要のない、取るに足りない代物だ」”

 復讐心以外の感情さえ目的のための道具と扱う。優先順位が動くことはない。以前に感情豊かに振る舞い、「刀集めが終わったらそなたと日本巡りしたい」等いちゃいちゃしていただけに、この本音や先の「殺すつもりだった」発言は、底で響く悲しい音色を感じさせて衝撃的だ。
 しかし、この揺ぎない優先順位を動かす出来事が起る。それはとがめが殺されることだ。死に瀕して復讐心が優先順位を他に譲る。死にかけだし、こりゃもう復讐はできなさそうだと譲歩する。

”「そなたの言う通りーーわたし達の負けだ。まあ……わたしが死ぬだけで、そなたが死ななかったのだから、よしとするか」”
”「わたしはーー今、とても幸せだよ」「道半ばで撃たれて死んでーー幸せだ」「これで、そなたを殺さずに済んだのだから」「やっと……やっと、これで……、やっとこれで……全部、やめることができる」”

 死は、復讐心以外の感情にとっては解放を意味していた。七花を殺す未来を閉ざす救いであった。とはいえただ抑圧が緩くなっただけで、とがめが変われたわけではない。とがめは、策士とがめと決別したわけではない。

”「わたしは自分勝手で自己中心的で、復讐のこと以外は何も考えることができず、死ななければ治らないような馬鹿で、そなたを散々道具扱いした、酷い、何の救いもないような、死んで当然の女だけれどーーそれでも」 「わたしはそなたに、惚れてもいいか?」”

「惚れる」という動詞は本来惚れる相手の許可が必要だろうか。枕詞(~の女だけど)から相手への配慮故の婉曲表現、一話の「私に惚れても良いぞ」の対比と解釈するのは普通だけど、自分の心へ、復讐心様への許可願いにも解釈できる。そしてその表現はあたかも自分の心が第三者の所有物みたいな意味合いを感じさせる。策士とがめ様の所有物。
 そして、とがめは策士とがめと共に逝く。七花を殺さなくて済んで良かった。七花が憎い。両方とも本心である。憎い方が”ただ”アイデンティティを、歴史を保つために優先されてただけだ。


 一方で七花。とがめにおいての復讐心に当たる固定概念は、七花にとってはとがめの命令だった。「12本の刀の破壊の禁止」「自分自身を守ること」「なるべく不殺」。命令が解除された彼は、敵の本陣に乗り込み、ばっさばっさ敵をなぎ倒し、とがめを撃った銃に辿り着く。完全変体刀の完成はとがめの死をもって完了したと言うが、実質むしろ固定概念の、命令の解除が完了のための条件として、またテーマの象徴として大きな意味合いを持っていたのだろう。しかし、彼にはまだ解除されていない命令があった。とがめが死ぬ間際、

”「虚刀流七代目当主ーー鑢七花。最後の命令だ」「わたしのことは忘れてーーこれまでの何もかもを忘れて、好きなように生きろ」”

 固定概念はとがめを苦しめた。むしろ人生を支配したと言っても過言ではない。だから固定概念は打破すべきだ、何もかも忘れて生きるべきだ。だがまた「何もかも忘れて生きる」というのもまた固定概念であり、命令ではないか。だから七花はこの命令を打破しようとする。とがめの固定概念を揺るがすことのできた銃と対峙することによって。

”七花「とがめのそういうところが好きだったんだから、俺も自分のために戦ってきたんだろうぜ」
左右「なら! お前は何のために乗り込んできた!?」
七花「……死ぬためだ。
 とがめは俺に生きろと言ったけど、俺はもうそんな命令に従う必要はないからな!
 俺を殺せるのはあんたを他にいないと考えてるぜ。
 とがめを殺したあんたしか」”

 結果として七花は勝利する。銃は「何もかも忘れて生きろ」という命令を破壊できなかった。この勝利は「「固定概念は打破して生きるべき」という固定概念は公理で例外なので打破しなくても良い」という作者の主張の象徴だろう。


ここまでをまとめると「(自身の歴史である)固定概念に囚われすぎるな」「自身の感情を無視するな」というテーマになる。こう簡単に言ってしまうと、うん、まぁよく聞くよくあるテーマだなぁと感じるのは個人的に否めない。ではどこに衝撃を受けたのかなと考えてみると、きっと初めて悲しい音の調べをはっきりと聞けたからだと思う。漱石は「のんきと見える人々も心の底をたたいてみると、どこか悲しい音がする。」と語った。維新は復讐心という固定概念に囚われ、自分の感情を無視したとがめという登場人物を使い、その死の確定と実際の死の間だからこそ心が緩み、表面に現れる悲しい音の調べを聞かせてくれたように思う。とがめはのんきって感じではなかったけどね。そしてその悲しい調べを聞かせる死を、救いという形で書き上げた。本来死と言えば、決別や後悔という負のイメージが強いが、とがめの死は救いを感じさせる。死ぬ間際に訊いた後悔したことのランキングに「仕事ばっかりしなければ良かった」等々あるが、果たしてその場合死は救いになっただろうか。きっと悲しい調べの中でも名曲を聞かせてくれたのだと思う。


最後に原作冒頭、また12話の予告の台詞を。テーマど真ん中である。「仕事ばっかりしなければ良かった」にならないようにということ。

”歴史とは人である。
つまり歴史とはきみである、
きみの知る歴史はすべて嘘だが
きみの知るきみは決して嘘ではない
真実だとか真相だとかまたは絶対とかそんな言葉は空想の産物だ
そもそも誰も信じていない。
きみがただ、きみであってくれますように”